立翔館について

運営元特定非営利活動法人立翔会
代表者田口浩紀(タグチヒロキ)
所在地〒601-8144 京都市南区上鳥羽火打形町12番地1
電話番号075-694-1850
FAX番号075-694-1852
受付時間8:30~18:30
定休日土曜・日曜・祝日
設立平成15年06月01日
法人設立平成18年12月01日
指定番号京都 第2610300275号
事業就労継続支援B型(平成19年度~)
スタッフ所長/職員7名
利用定員40名

アクセス

京都市バスご利用の方

  • 近鉄上鳥羽口駅前バス停より、徒歩約8分
  • 鳥羽大橋北詰バス停より、徒歩約10分

電車をご利用の方

  • 近鉄奈良線【上鳥羽口】駅より、徒歩8分
  • 近鉄奈良線【竹田】駅より、徒歩13分

沿革

2003年(平成15年)06月名称を「立翔館」とし、利用者4名・職員2名で、準備期間としての活動開始。 場所は中京区西ノ京円町の古民家。 古民家の家主は京都中小企業家同友会・障害者問題委員会委員長(当時)。
1階は四畳半と六畳、2階は三畳と四畳半の部屋をつないで作業室としていた。
2004年(平成16年)04月京都市より認定を受け、共同作業所として正式に活動開始。
京都中小企業家同友会・障害者問題委員会にオブザーバーとして関与。
2004年(平成16年)08月京都中小企業家同友会・障害者問題委員会の発案により、産福連携レストラン事業を開始。
提携先は「有限会社レストラン思風都」。場所は北区原谷の「社会福祉法人七野会」の職員食堂。名称は「パズル」。
福祉と企業のタイアップ事業であり、先駆的な試みとして注目された。
2004年(平成16年)11月中小企業家同友会に入会。同友会京都支部における共同作業所入会の初の事例となった。
2005年(平成17年)04月丸和商事株式会社(寝具問屋・四条新町)社長代行・野一色研二朗氏と出会う。
2005年(平成17年)12月丸和商事株式会社社屋2階の一角を改装していただき、「新町分室」開室。
2006年(平成18年)04月障害者自立支援法成立。共同作業所から自立支援法新事業への移行に向けて準備開始。
2006年(平成18年)12月法人格(特定非営利活動法人)取得。法人名称を「立翔会」とする。
2007年(平成19年)04月障害者自立支援法規定の「就労継続支援事業所(B型)」として再スタート。
2010年(平成22年)10月京都中小企業家同友会退会。
2010年(平成22年)12月右京区西院高田町に好条件の土地物件あり、社屋建設・移転計画を進行。
2011年(平成23年)02月右京区西院高田町への移転計画、土地取得に失敗し頓挫。製凾機購入計画に切り替える。
2011年(平成23年)03月業績不振部門となっていたレストラン事業から撤退し、紙器組立作業に一本化。
2011年(平成23年)04月上鳥羽・高橋倉庫を借り、製凾機スバル2機を導入して「上鳥羽工場」オープン。
2012年(平成24年)02月上鳥羽・高橋倉庫の解体決定により退去、下鳥羽・巽倉庫に移転(「下鳥羽工場」)。
2013年(平成25年)06月ホームページ開設。
2013年(平成25年)08月南区上鳥羽火打形町の土地物件を購入。土地購入に係る融資実行(京都信用金庫)。
2013年(平成25年)10月社屋建設に係る融資につき決裁(京都信用金庫)、社屋建設計画に着手。
2013年(平成25年)11月社屋建設着工(野口建設)。
2014年(平成26年)07月社屋建設竣工。事業所を移転。円町・新町・下鳥羽の三拠点を火打に一本化。
(円町本室・新町分室は撤収。下鳥羽工場は製凾機を移設し倉庫として維持継続)

代表あいさつ

立翔館は、「仕事」を活動の中心に据える「就労継続支援B型事業所」です。
仕事を通じて、学ぶべきことは沢山あります。

  • 向上心・挑戦:今できないこと・難しいことに挑戦すること。
  • 役割と責任感:自分の役割をもつこと。自分の役割に責任をもつこと。
  • 同僚との関係:競い合い、高めあうこと。協力し合い、助けあうこと。
  • 自発性:積極的・自発的に行動すること。指示がなくても動けるようになること。
  • 気配り:自分のことだけでなく、他者のこと・全体のことにも気を配ること。
  • 効率:無駄な行動を減らし、効率の良い行動をすること。
  • 声を出すこと:挨拶と返事、報告・確認・質問など、気持ちよく声を出せるようになること。
  • お金:働いて得たお金の価値を知ること。

当たり前のことばかりのようですが、障害者を取り巻く環境には、これらを身につけるために必要な要素が不十分であることが多いのです。立翔館は、これらの「大切なこと」を学び、身につけることができる環境です。

立翔館では特に、「評価」「役割」「責任」を重視します。
人は誰でも、評価され、期待され、感謝されることを渇望しています。誰からも評価されない子、誰からも期待されない子・感謝されない子が、いてはいけない。また、集団の中で「役割」を持つことは、自分が必要とされている・自分の存在をみんなが認めてくれている、という存在証明でもあります。役割とは、居場所であり、存在意義そのものだと思います。そして、その役割には責任が付随していなければなりません。責任の付随しない役割は、本当の役割ではありません。自分の役割や行動に責任を持ってもらうこと。障害者の環境に欠けているもののひとつです。

立翔館はこのような考え方を、日々行う仕事の中で実践しています。

法人代表 兼 事業所長
田口 浩紀

所長プロフィール

出  生

出生~岩出町立「上岩出保育所」

和歌山県和歌山市、当時の父の赴任先で出生。のち、和歌山県那賀郡岩出町に転居。
父は長崎県佐世保出身。大和ハウス工業社員。実家は佐世保重工造船所の近く。
母は山口県岩国出身。小学校教員。実家は岩国城の城下町、名勝「錦帯橋」の近く。
生まれた時から体が小さく、ずいぶん親を心配させたらしい。
伝い歩きができるようになった頃、自宅の「ぼっとん便所」に転落。母の叫び声で近所のおっちゃん達が駆けつけて救助され、九死に一生を得る。田んぼを駆け回り、ウルトラマン怪獣やゴレンジャー(特に青レンジャー)を愛し、カマキリやカエルの捕獲に全力を注ぐ、当時のスタンダードな保育園児であった。

小 学 校

岩出町立「上岩出小学校」~神戸市立「南五葉小学校」

極端に小柄で発育不良。特に低学年時は勉強も運動もダメで、成績不振がひどかった。あまりの酷さに、新米教師である女性担任が「教師としての自信をなくす」と母の前で泣いたらしい。
小二の冬休み、父の転勤のため和歌山から神戸に転居。転校後、水泳を習い始めた頃から体育の成績だけは向上していった。水泳はスイミングスクール同級の中でダントツで速く、体育の跳び箱では誰よりも高い段を跳べた。
小六では兵庫県教育委員会の運動能力テストで「銀賞」受賞。しかし、学業は多少マシにはなったものの相変わらず不振で「中の下」程度。

中  学

神戸市立「星和台中学校」~高槻市立「高槻第九中学校」

中二の夏休み、父の転勤のため神戸から高槻に転居。
転校後、学習塾「明倫館」に通うことに。「ヒントを与えて覚醒させる」式の塾の教え方は自分に合っていたらしく、突如成績が伸び、クラスで2位に。しかし、チンパンというあだ名の1位の奴にはどうしても勝てなかった。
運動では柔道部に所属、武道の魅力に目覚める。得意技は双手背負い。鬼のような道場練は、失神寸前の厳しさであった。あまり勉強もせずに部活に打ち込む日々。余暇では「犬の糞を爆竹で発破する」という遊びを考案し、友人らと空き地に出かけては犬のフン探しに没頭するという、くだらないことに時間と労力を浪費していた。

高  校

洛南高等学校

せっかく入った進学校で、学業成績が急降下。代数幾何で0点、物理で5点など、学年最低記録を次々に更新し、偏差値は20~30台と、進学校生にあるまじき成績まで転落。ついに担任に呼び出され、「お前、このままでは進学どころか留年やぞ」と脅される。
ここで理系を捨て、国立文系から私立文系への転向を決意。科目を絞り込む。目標は分不相応にも関関同立。特に「立命館大学」というカッコイイ名前に憧れていた。しかし時すでに遅し、3科目に絞ったものの受験には間に合わなかった。
人生初の大学入試は受験校全滅という惨憺たる結果に終わり、浪人することに。

受験浪人

予備校「関西文理学院」

予備校に通い始めて突如成績が好転。破竹の勢いで偏差値70~80台まで一気に急上昇。その年の秋には、旺文社(だったと思う)の模試で全国16位(西日本で2位)に。
夏までには志望校を関関同立から「慶應義塾大学」に格上げしていたが、この模試結果で天狗度がピークに達し、「東京大学(後期日程=文系科目のみ)を狙う」と豪語。クラス担任に呼び出される。「入試目前の大事な時期に、いったい何を言い出すんだ」と。
結果、志望校である慶應・早稲田に落ち、東大は足切で受験できなかった。が、同志社・立命館・明治の3大学4学部に合格、悩んだ末に立命館大学法学部を選択。無事2浪は避けられたものの、未だに「慶應義塾」と聞くと劣等感が疼く。

大  学

立命館大学法学部法学科

入学後すぐ、念願の一人暮らしを始め、我が世の春を謳歌した。部活にバイトに大忙しで、ろくに講義に出席しない典型的なダメ学生であった。反面、人生のモラトリアム=大学時代ならではの多くの経験をし、多くの友人を得た。
部活では、空手道部に入るつもりで道場見学に行ったところ、隣道場の先輩女子からの甘い勧誘に屈し、合気道部に入部。血尿が出るような根性練の日々を経て、幹部時代は副将を務めた。
同時に、誰もが敬遠する体育会本部役員に選出(つまりジャンケンで負けた)され、幹部時代は体育会総務部長を務める。体育会を組織として統括し、フレッシュマンキャンプやリーダースキャンプなどの大掛かりな行事の企画・運営、大学側との様々な交渉、体育会の憲法「体育会規約」の改正など、嫌々ながらも精力的に取り組んだ。
武道系クラブや応援団など部を跨いで多くの友人を得たのも、後に独立して経営者として何とかやっていけているのも、この体育会本部での経験あればこそ。あの日あの時のジャンケンは、その後の人生を大きく変えたのである。
四年間を過ごした四畳半の下宿「洪水荘」は、武道系の「溜まり場」と化していた。酒にタバコにハードロック、バイクにバイトに部活動。親が聞けば涙するような大学時代であった。卒業できたのが不思議である。

就職浪人

予備校「LEC」

そんな自分も就職活動の時期に。時はバブル崩壊直後の90年代前半。団塊ジュニア世代の人口とも相俟って就活は熾烈を極めた時代であった。周囲が就活に動き出した頃、自分は何の仕事がしたいのか見当がつかなかった。法曹?金融?住宅?マスコミ?状況を飲みこめないまま取り残されていった。結果、自分も含めて取り残された武道系の友人たちの大半は、就職浪人前提で公務員志望に。
現役時および1浪目、独学で勉強して試験に臨んだが全て落第。独学では無理だと悟り、LECに入校。親に迷惑を掛けまいと、新聞配達のバイトをしながら勉学に励む。入校後すぐにメキメキと成績が上がり、模試では全国11位に。振り返ると、塾や予備校に通っている時「だけ」いきなり賢くなるらしい。
憲法・民法・行政法。刑法・商法。政治学・行政学。経営学・社会学。財政学・経済原論。多岐にわたる専門科目を広く浅く学び、遅まきながら学問の喜びに目覚めた。予備校で学んだこれらの学問は、今の自分のベースとなっている。
2浪目にして、京都府上級行政職員と労働基準監督官の一次学科試験を突破。背水の陣で二次面接試験に挑んだが、力みすぎたのか緊張して珍回答を連発し、あえなく撃沈した。

社 会 人

就幸館~立翔館設立

公務員試験に落第し途方に暮れたが、これ以上親の脛は齧れないと、取りあえずの就職先を探した。働きながら勉強を続けて、翌年の公務員試験に再挑戦するつもりでいた。就職先に福祉業界を選んだのは、前回失敗した面接試験で堂々と自分をアピールするために最もふさわしい業種だと考えたから。また、漠然と興味があったから。動機は極めて不純だったが、そんな自分を共同作業所で当時京都最大だった「就幸館」が拾ってくれた。
入職1年後、施設長はじめ先輩職員が立て続けに全員離職し、主任指導員に昇格。
翌年度期首、施設長着任。この時点で、すでに公務員試験は眼中になかった。
この間、福祉や商売について独学で学び、機械扱いの技術などを身につけていった。
苦労も多かったが、自分の存在を認めてくれる環境に居ることが楽しく、この仕事に人生を捧げるだけの魅力と手応えを感じていたのである。

2003年3月、いろいろあって就幸館を退職。退職の半年前には独立を決意し、勉強や根回しを進め、退職時には名称や賃貸物件まで既に決めていた。
2003年4月、立翔館設立準備会を発足。京都市や町内会へのお願い回り・作業受注の準備・各種書類の整備など、具体的準備に奔走するドタバタの日々。
2003年6月、立翔館開所。6月1日に開所式を行い、翌日より作業活動を開始する。(以下「沿革」に続く)